徳川家光 輪王寺を紹介します。
日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。
ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。
「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については2005年現在も東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていない。
輪王寺は、下野国(栃木県真岡市)出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと言われている。下野国には当時、東国一の寺院と言われた下野薬師寺があり、早くから仏教文化の栄えた土地であったらしい。開創の事情は、寺伝によれば以下のとおりである。天平神護2年(766年)、勝道上人と弟子の一行は、霊山である日光山の麓にたどりついたが、大谷川(だいやがわ)の激流が彼らの行く手をはばみ、向こう岸へ渡ることができずに困っていた。そこへ、首から髑髏(どくろ)を下げた、異様な姿の神が現われ「我は深沙大王(じんじゃだいおう)である」と名乗った。
深沙大王は2匹の大蛇を出現させると、それらの蛇はこちら岸と向こう岸を結ぶ橋となり、勝道上人一行は無事対岸へ渡ることができたという。現在、日光観光のシンボルになっている「神橋」(しんきょう)はその伝承の場所に架かっている。深沙大王は「深沙大将」とも呼ばれ、唐の玄奘三蔵が仏法を求めて天竺(インド)を旅した際に危機を救った神であるとされ、神橋の北岸には今も深沙大王の祠が建っている。
「2匹の大蛇」云々の話が伝説にすぎないことは言うまでもないが、この伝承は日光山が古くから山岳信仰の聖地であったこと、日光山が近付きがたい場所であったことを反映しているものと思われる。
勝道上人は、大谷川の対岸に聖地を見付け、千手観音を安置する一寺を建てた。紫の雲たなびく土地であったので、「紫雲立寺」(しうんりゅうじ)と言ったが、後に「四本龍寺」(しほんりゅうじ)と改めたという。現在の輪王寺の本堂(三仏堂)は、大谷川からかなり離れた土地にあるが、「四本龍寺」の旧地にも観音堂など、若干の堂塔が建っている。翌神護景雲元年(767年)、勝道上人は四本龍寺に隣接する土地に男体山(二荒山)の神を祀った。二荒山神社の始まりである。
現在、「本宮神社」と呼ばれている社地がこれに当たる。なお、勝道上人がこの神を祀ったのは、延暦9年(790年)だとする説もある。
天応2年(782年)、勝道上人は日光の神体山である男体山(2,484メートル)の登頂に成功した。観音菩薩の住処とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んでこの山を二荒山(ふたらさん)と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。男体山の山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代から山岳信仰の聖地であったことは確かである。 [[ 延暦]]3年(784年)、勝道上人は、四本龍寺西方の男体山麓にある湖(中禅寺湖)のほとりに中禅寺を建立した。これは、冬季の男体山遥拝所として造られたものと言われている。
「立木観音」の通称で知られる中禅寺は現存しているが、当初は湖の北岸にあった堂宇が明治時代の山津波で押し流されたため、現在は湖の東岸に移転している。
創建以後、平安時代には真言宗宗祖の空海や天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)らの来山が伝えられる。円仁は嘉祥元年(848年)来山し、三仏堂、常行堂、法華堂を創建したとされ、この頃から輪王寺は天台宗寺院としての歩みを始める(現存するこれらの堂は、いずれも近世の再建)。「常行堂」「法華堂」という同形同大の堂を2つ並べる形式は天台宗特有のもので、延暦寺や寛永寺にも同名の堂が建てられた。
鎌倉時代の日光山は幕府や関東地方の有力豪族の支援を受け隆盛した。男体山、女峰山、太郎山の三山の神を「日光三所権現」として祀る信仰はこの頃に定着したようである。三山、三所権現、祭神(垂迹神)、三仏(本地仏)の対応関係は次のとおりである。
男体山(2,484メートル)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと)=千手観音
女峰山(2,464メートル)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと)=阿弥陀如来
太郎山(2,386メートル)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)=馬頭観音
以上のように日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されていたのであり、輪王寺本堂(三仏堂)に3体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
輪王寺は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏側に加担したかどで寺領を没収され、一時衰退した。しかし、近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となってから復興が進んだ。元和3年(1617年)には徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた(現存の東照宮社殿はこの時のものではなく、20年ほど後に建て替えられたもの)。承応2年(1653年)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(だいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている。
その翌年の明暦元年(1655年)には後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称した。
寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」とも言う。のちに還俗して北白川宮能久親王となる公現法親王も、輪王寺門跡の出身である。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。
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徳川家ゆかりのお寺ですがすごく歴史が深いですね。
徳川家光歴史5
ではどのように政治をおこなってきたのか。
家光を教育したのは青山忠俊である。ところが、とにかくこの人物は厳しい教育を行った。そのため家光に恨まれ、まず二万5000石の所領が没収された後、1625(寛永2)年には残りも全て取り上げられ、蟄居させられてしまった。その後、家光は「自分のために厳しくやってくれたのだ」と気が付き、許そうとするが、今度は青山忠俊が許さず、引きこもったまま1643(寛永20)年に66歳で死去した。
家光は父以上に大名の改易を行い、先ほどの徳川忠長、それから熊本藩主加藤忠広(加藤清正の子)を筆頭に、外様29家、譜代・親藩20家の合計400万石にも及び、これらは家光の側近や、親藩などに与えられた。
さて、同じ母から生まれた弟であるにもかかわらず、徳川忠長に対しては事実上自害に追い込んだ家光であったが、もう一人の7歳下の弟で、秀忠の隠し子であった保科正之には絶大な信頼を寄せた。そもそも、保科正之は18歳の時に秀忠と初めて対面したのだが、それでもこれは極秘のこと。秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去し、家光が自分に弟がいたことを知ったのは、秀忠が死んだあとのことである。
どうやって知ったのかというと、家光は、鷹狩りの途中に立ち寄った保科家の菩提をつとめるお寺の住職からその話を聞き、早速対面。よほど嬉しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに、正之32歳の時、会津若松23万石へランクアップさせた。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤一筋だったため、忠長の時とは対照的に不和は起こらなかった。
そして家光は死去する直前、まだ幼い息子・家綱のことを正之に託し、手を握り、正之から「身命をなげうち、ご奉公致しますから安心してくだされ」という言葉を聞き、「安心した。もはや心残りはない」と答えると、そのまま昏睡状態に陥り、2時間後に死去したとのことである。正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。また、正之の会津藩は後に、会津松平家となり、激動の幕末に大きな役割を果たすことになる。
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家光を教育したのは青山忠俊である。ところが、とにかくこの人物は厳しい教育を行った。そのため家光に恨まれ、まず二万5000石の所領が没収された後、1625(寛永2)年には残りも全て取り上げられ、蟄居させられてしまった。その後、家光は「自分のために厳しくやってくれたのだ」と気が付き、許そうとするが、今度は青山忠俊が許さず、引きこもったまま1643(寛永20)年に66歳で死去した。
家光は父以上に大名の改易を行い、先ほどの徳川忠長、それから熊本藩主加藤忠広(加藤清正の子)を筆頭に、外様29家、譜代・親藩20家の合計400万石にも及び、これらは家光の側近や、親藩などに与えられた。
さて、同じ母から生まれた弟であるにもかかわらず、徳川忠長に対しては事実上自害に追い込んだ家光であったが、もう一人の7歳下の弟で、秀忠の隠し子であった保科正之には絶大な信頼を寄せた。そもそも、保科正之は18歳の時に秀忠と初めて対面したのだが、それでもこれは極秘のこと。秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去し、家光が自分に弟がいたことを知ったのは、秀忠が死んだあとのことである。
どうやって知ったのかというと、家光は、鷹狩りの途中に立ち寄った保科家の菩提をつとめるお寺の住職からその話を聞き、早速対面。よほど嬉しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに、正之32歳の時、会津若松23万石へランクアップさせた。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤一筋だったため、忠長の時とは対照的に不和は起こらなかった。
そして家光は死去する直前、まだ幼い息子・家綱のことを正之に託し、手を握り、正之から「身命をなげうち、ご奉公致しますから安心してくだされ」という言葉を聞き、「安心した。もはや心残りはない」と答えると、そのまま昏睡状態に陥り、2時間後に死去したとのことである。正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。また、正之の会津藩は後に、会津松平家となり、激動の幕末に大きな役割を果たすことになる。
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| 徳川家光歴史
徳川家光歴史4
徳川家光をさらにつっこんでいきたいと思います。
家光は弟の徳川忠長と違い、母お督ではなく、乳母の春日局に育てられたことから、両親共に忠長を可愛がっていたため、後継者争いがあった。家光の将軍継承には非常に難しいものだった。
しかし、幸いにも、家康が存命中だったため、春日局の訴えで「長序の順」から家光が後継者であると宣言してもらうことが出来た。この時の恨みは深かったようで、後に忠長は、おとなしく兄に従えばいいのに同格意識が抜けずに対抗するという、彼自身の不行状もあり、改易処分を受け、自害を命じられた。
また、家光は「二世権現、二世将軍」を書いた紙を、守り袋の中に入れ、父の存在を欠落させている。一方、自分を将軍後継者に指名した家康への崇拝の念は非常に強く、家康をまつる日光東照宮を、秀忠が造営した物を改築し、自分の色に染め上げ、現在見られる壮大なものを完成させている。
将軍就任に際し、「生まれながらの将軍である」と高々と宣言した家光だが、実際には危機一髪であったのである。
彼もまた側近に恵まれた人物である。秀忠の頃からの重臣、土井利勝・酒井忠世の他、家光が誕生すると側近として使えた稲葉正勝(春日局の子)、知恵伊豆と言われた松平信綱、堀田正盛、阿部忠秋、阿部重次、三浦正次、太田資宗という「六人衆」をはじめ、家光の周りには切れ者が多く集まっている。
彼らの下、幕藩体制の確立と、また農民&キリスト教徒による島原の乱以降、オランダ・中国・朝鮮・琉球を除き日本との貿易を禁止し、いわゆる鎖国体制を作りあげた。もっとも、鎖国と言っても日本にはオランダを通じて諸外国の物品・情報自体は入っていたのだが。 余談だが太田資宗は、江戸城を最初に造った太田道灌(資長)の子孫である。
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家光は弟の徳川忠長と違い、母お督ではなく、乳母の春日局に育てられたことから、両親共に忠長を可愛がっていたため、後継者争いがあった。家光の将軍継承には非常に難しいものだった。
しかし、幸いにも、家康が存命中だったため、春日局の訴えで「長序の順」から家光が後継者であると宣言してもらうことが出来た。この時の恨みは深かったようで、後に忠長は、おとなしく兄に従えばいいのに同格意識が抜けずに対抗するという、彼自身の不行状もあり、改易処分を受け、自害を命じられた。
また、家光は「二世権現、二世将軍」を書いた紙を、守り袋の中に入れ、父の存在を欠落させている。一方、自分を将軍後継者に指名した家康への崇拝の念は非常に強く、家康をまつる日光東照宮を、秀忠が造営した物を改築し、自分の色に染め上げ、現在見られる壮大なものを完成させている。
将軍就任に際し、「生まれながらの将軍である」と高々と宣言した家光だが、実際には危機一髪であったのである。
彼もまた側近に恵まれた人物である。秀忠の頃からの重臣、土井利勝・酒井忠世の他、家光が誕生すると側近として使えた稲葉正勝(春日局の子)、知恵伊豆と言われた松平信綱、堀田正盛、阿部忠秋、阿部重次、三浦正次、太田資宗という「六人衆」をはじめ、家光の周りには切れ者が多く集まっている。
彼らの下、幕藩体制の確立と、また農民&キリスト教徒による島原の乱以降、オランダ・中国・朝鮮・琉球を除き日本との貿易を禁止し、いわゆる鎖国体制を作りあげた。もっとも、鎖国と言っても日本にはオランダを通じて諸外国の物品・情報自体は入っていたのだが。 余談だが太田資宗は、江戸城を最初に造った太田道灌(資長)の子孫である。
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